2007-03-16 第166回国会 衆議院 外務委員会 第3号
あれ以来、いわゆるフォルクスシューレをそのまま直訳して国民学校という名前に変えて、尋常小学校をやめて国民学校に変えていった、あの昭和十六年から、基本的には官僚主導、業界協調、このやり方で間違いなく五、六十年やって成功したんだと私は思いますね。間違いなく成功したから、これだけ豊かな国になったんだと思います。
あれ以来、いわゆるフォルクスシューレをそのまま直訳して国民学校という名前に変えて、尋常小学校をやめて国民学校に変えていった、あの昭和十六年から、基本的には官僚主導、業界協調、このやり方で間違いなく五、六十年やって成功したんだと私は思いますね。間違いなく成功したから、これだけ豊かな国になったんだと思います。
大体、日本社会は、官僚主導業界協調、日本式経営、職縁社会・核家族という三つを土台といたしまして、強固な近代工業社会、規格大量生産社会をつくってまいりました。
戦後、官僚主導、業界協調という体制をつくり上げて、敗戦後十年したら、もはや戦後ではない、三十年したら、もう自主規制なんというぐらい、ばあっと追いついてここまで来たというのは、間違いなく制度として、この官僚制度を含めて当たった制度だったと思いますが、やはり八〇年代ぐらいから何となく、そこそこを達したから地方分権にという流れだったんだと思うんですね、あのとき。
戦後も官僚主導、業界協調という形でこの国というのはうまくやってきたんだと思うんです。
戦後も多分、官僚主導、業界協調という中央集権制度をやって、たった十年で、もはや戦後ではないとか、三十年もすればアメリカを上回る経済力を自動車とかいろいろな部分でつけるようになった。 これは当たったんだと思うんですが、多分、一九八〇年代ぐらいでほぼこの制度の本来の目的は達し終わっていて、いよいよもたなくなってきて、プラザ合意になっていきなりドルが暴落というようなことになっていくんです。
もう一つは、やはり開発途上国においては、僕は中央によります計画経済というのも結構効果を発揮し得ると思いますけれども、ある程度経済が成熟してくると、なかなか官僚主導、業界協調という形のものではなくなってくる。
○国務大臣(麻生太郎君) なかなか難しい質問なんですが、二之湯先生、明治四年に廃藩置県をやって日本という国は中央集権という形を作り上げた結果うまくいって、私どもという国は、少なくとも当時、帝政ロシアの植民地にもならず、うまく生き延びるため、また、戦後も官僚主導、業界協調みたいな形の体制を作り上げて、結果として日本という国の経済復興に成功したんだと思うんですが、何となく、今御指摘のありましたように、やっぱり
また、戦争に負けました昭和二十年以降、敗戦後も、間違いなく日本というのは、経済復興という国家目標を立てて、それにあわせて、中央官僚主導、業界協調というこの体制で、少なくとも、日本という国は、経済復興に最重点を置いて経済政策を立案し、それに対して金融を傾斜配分させる等々のことをやって、日本の経済復興はたった十年をしてもはや戦後ではないという言葉を生み出すまでに成功した。
戦後も同じように、官僚主導、業界協調みたいな一種の中央集権型できちんとした対応をやった結果、経済大国に短時間でのし上がった。
戦後も多分、官僚主導、業界協調型と言われるのが正しいかと思いますが、そういった体制でやってきて、これまた少なくとも十年を経ずして、もはや戦後ではないという言葉が出、そして二十年すれば、ジャパン・アズ・ナンバーワンなんて言葉が出るようになってきて、どんどんどんどん、えらい勢いで、自動車も何も全部輸出過多であるというようなところまで来て、近代工業化社会としては大成功したんだと思うんです。
したがいまして、戦後も同じように、あの新憲法ができたとはいえ、少なくとも官僚主導、業界協調という形で戦後の経済復興というものに全力を挙げて、間違いなく世界第二の経済大国にのし上がったという事実は、紛れもなくその政策が当たったと思います。しかし、その間非常に大きく時代が変わって、経済は豊かになった。
間違いなく、官僚主導、業界協調型で戦後これだけ経済的に反映したことも確かですから、私はそれはそれなりに当たった制度だったと思います。 ところが、ほとんどのところに物が行き渡り、公民館もそこそこ皆でき、いろいろな形で一わたりしてみたときに、改めて、もう一回、その地域にはその地域の特色ある発展、いわゆる特色ある地方というものがあってもいいのではないか。
それから、今おっしゃいましたように、敗戦直後からたった十年で間違いなく、もはや戦後ではないという言葉が出て、少なくとも、官僚主導、業界協調という中央集権体制で少なくとも世界第二の経済大国にのし上がったというのも、間違いなく政策の手法としては当たったんだと思います。
戦後も同じようにこのやり方を踏襲して、官僚主導・業界協調型みたいな形でのものに成功させたんだと思っておりますが、どうやら世の中が豊かになってきて、こういったときにはもう一回時代が大きく変わって、脱工業化社会というような時代になってくると、これは新しい時代に合わせたものが、これはむしろ中央で考えて、これでいいという答えがないものですから、いろんな意味で地方が考えるということの方が大事なのではないかということで
を近代工業化社会にすること以外に植民地化を避けることはできないという、当時の明治政府の政治家の結論だったと思いますけれども、その当時それで推し進めて、結果としてはたった三十七年であのナポレオンすら勝てなかった当時の帝政ロシアに勝てたんですから、それは結果としては、方法としては決して間違っていなかったと思いますし、また戦後も、経済復興という国家目標一本に絞ってやるためには、いろんな意味で官僚主導、業界協調型
戦後も、同じように、昭和二十年の敗戦以後、瞬く間に世界第二位の経済大国に復興をなし遂げたという点につきましても、中央官僚主導、業界協調型みたいな形の社会をつくり上げて、当たりに当たってここまで来たんだと思いますが、どうやら時代がさらに変わって、脱工業化社会という言葉に言われるようないわゆる一つの時代が終わって、多分それが、情報化とか知価とかいろいろな表現が出ましたけれども、今、間違いなくそういう方向
戦後も同じように、国として、やはり、経済復興というもの一点に絞って、国の制度自身というものを大幅に中央集権化し、官僚主導、業界協調型という国家体制をつくり上げて、少なくとも、これだけ短期間の間に経済復興をなし遂げたということに関しましては、私は当たった制度だったんだと思っております。
そして、昭和十五、六年ごろから日本が規格大量生産の社会を目指すという中で、まず官僚が基本方針を定めて、それに従って民間が協調して、官僚主導、業界協調体制でやっていくんだ、そういう仕掛けができ上がったわけです。
けれども、どんどんとまたもとへ戻って、官僚主導の業界協調体制になって、これで日本は工業が発展した。もちろん、軍事、思想、そういう点は変わりましたけれども、経済、文化の点では非常に継続性があるんじゃないか、こう考えている次第であります。ここはいろいろと昭和史の意見が分かれるところかもしれませんが、私と同じ認識を持っている者も結構多いのではないかと思っております。
そのために、官僚主導、業界協調体制というものができまして、終身雇用で職縁社会、職場のえにしでつながる社会ができ上がりました。それにふさわしく、都市の構造も、生産手段と労働力を再生する都市、住宅それから学園都市を分離する、その間を高速交通機関で結んで、巨大都市をつくるということに徹底してまいりました。 これからの時代は、多様な知恵の時代、日本の多くの人々が参加して知恵を絞り出していく時代だろう。
○麻生委員 哲学者ヘーゲルの言葉だったと記憶をしますが、時代は課題の提出者であるという言葉が述べられておりますが、戦後と言われて約五十七年、世紀も変わりまして新しい二十一世紀になりましたが、官僚主導、業界協調型体制で、この半世紀、日本は経済復興を進め、いろいろな成功をおさめてきたことは間違いない、私どもはそう思っておりますが、人々の価値観の多様な変化というものにはついていけないことになって、戸惑いながら
○麻生委員 明らかに今までの状況とは違ってきているのに対応するということになってくると、先ほど申し上げましたように、官僚主導、業界協調型の経済体制で戦後支えてきた前提が狂ってきているので、競争というものがないと競争力が培われない。競争がないと競争力が培われないわけですから、やはり規制緩和が新しい産業というものを創造するんだと思っています。
日本は、明治以来ずっと規格大量生産の近代工業社会を目指すというコンセプトのもとに、官僚主導、業界協調体制でやってまいりましたが、この結果、日本は非常に近代工業の発達した世の中になりました。その反面、さまざまな問題が起こりました。 現実の東京の生活は、地価が高騰し、通勤距離がどんどん延び、ごみ処理、水供給が困難になり、国際機関も東京は高くついて困るというような時代になっています。